『最愛の子』:1つの罪に揺るがされる多くの人の悲劇的運命を描いた作品!

最愛の子

「最愛の子」を観ました。

評価:★★★★★

中国・深センで実際に起こった幼児誘拐事件を基に、「捜査官X」のピーター・チャンがメガホンを取ったヒューマン・ミステリー。予告編を観ていた段階からすごく悲劇的だなーと思ったのは、子どもが親の顔を認識する前の幼児期(3歳ごろ?)に誘拐され、その誘拐した男の妻を親だと思って育ってしまったこと。作品の中盤で、実の親に引き戻されるものの、その子どもにとっては母親と認識している女性が奪われたという悲しい出来事に過ぎない。こうしたある事件が起こした運命の歯車のかけ違いが、ラストに向かって非常に想像だにつかないような方向に転げていく。。なぜ、この話の筋でミステリーなのかと思われる方もいるかも思うのですが、実は見てみると巧妙なドラマの仕掛けにニンマリとしてしまう映画通を唸らせる作品になっているのです。

客観的に見て、子どもが親をちゃんと認識できるのは何歳くらいなんでしょうかね。子どもがいる人を傍から見ていると、もう2歳や3歳になると、ちゃんと親のところにはいくし、見知らない状況になったときには泣いたりわめいたりするものなので、3歳くらいだとそういう認知がしっかり働いていると思ってしまいます。でも、自分の記憶を頼りにして思うと、(人それぞれとは思うのですが)すごく小さい頃に思い出す風景の中に、親のはっきりした顔を見ているかというと怪しいところ。それよりも、子どものころに入院していた病院の手術室から逃亡したときのリノリウムの床の色や、ガレージでお気に入りだった足こぎバギーのペダルやボディの色、保育園に入るときの大きなガラス戸のドアとか、そんなモノの絵柄や色みたいなものが思い出され、親どころか、人の顔の認識というのがちゃんとしてきたのは保育園での年長くらいとか、幼稚園の頃(それこそ4、5歳)にならないと分からないものなのかなとも思います。親の認識はしてたとは思うのですが、それは顔というより、全身とか、声とか、匂いとか、そういうもの全体を含めた認識しか、2、3歳くらいだとできてなかったんじゃないかと思えてきます。

映画でも、それを象徴的に描いているところがあります。それは誘拐される息子ポンポンが、母親ジュアンの車に付けられたワッペンマークに親を感じて追っていくところ。これがポンポンが失踪し、誘拐されてしまう要因になるのですが、やはり、これくらいの子どもはすごいいろいろなモノ・記号の集合体としてしか親をいう存在を認識していないことを、(少し言葉は悪いですが)科学的にちゃんと示しているのです。そして、次に驚くのが、ポンポンと同じように息子・娘が失踪もしくは誘拐されたまま、行方知れずになってしった親たちの自助集団の行動。むろん、日本でも病気とか、事件とか、不幸・不遇な状況に陥った人たちの自助するグループというのはたくさんありますが、そこでの活動にすごくのめりこんでしまう一種の異様さみたいなものが、痛いほどスクリーンから伝わってくるのです。これは彼ら彼女らが負った深い傷、また息子・娘にそそぐ(そそがれるべき)感情の裏返しでもあるのですが、それを考えると余計に切なさを感じます。

この映画の凄いのは、こうした感情を揺さぶるヒューマンドラマを展開しながらも、後半はまったく違う色合いの映画になっていくことです。予告編では、そのことをうまくぼやかしているので分かりませんが、この後半の色合いがピリッと変わるところは映画自体が大きな二幕構成になっていて、それがラストで1つにまたつながってくるのが作品としてドラマチックなのです。それにラストのオチ自体も何とも言えず切ない。この切なさと作品を通じて分かるのは、誘拐という1つの罪がもたらしたものがあまりにも甚大だということ。「罪を憎んで、人を憎まず」とはよく言いますが、本作に出てくる人は誰もが被害者でしかないのです。それを壊してしまったのは、ひとりの男(この犯人が作品中は顔が分からないというのも演出の上手さなのですが)の決して許されるべきでない行為から始まったということ。1つの罪が、これほど多くの人の運命を変えてしまうと思うと、どんな罪であっても犯罪というのは許されるべきことではないということを、私たちに教えてくれているように思います。

次回レビュー予定は、「オデッセイ」です。

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