『サウルの息子』:この映画の読後感は「地獄の黙示録」と同じもの。強烈な生物と人間臭を放つ傑作!

サウルの息子

「サウルの息子」を観ました。

評価:★★★★★

昨年(2015年)のカンヌ国際映画祭で、審査員特別賞に当たるグランプリを獲得し、今年(2016年)の第88回アカデミー賞では最優秀外国語映画賞にも輝いたハンガリー映画。舞台となるのは、1944年のアウシュビッツ=ビルケナウ収容所。ここでユダヤ人でありながら、ドイツ軍の指揮の下、同胞の屍体処理や収容管理を行うゾンダー・コマンドという選ばれたユダヤ人たちを描いたドラマとなっています。主役のサウルを演じるのは、詩人としても活躍しているルーリグ・ゲーザ。監督はハンガリーの新鋭監督、ネメシュ・ラースローが務めています。

スピルバーグの「シンドラーのリスト」をはじめとして、第二次世界大戦下のユダヤ人収容所を描く映画は昨今も多く作られています。こうした収容所ものを、ユダヤ人の受けた迫害の象徴として描いた「シンドラーのリスト」が強烈だったこともあってか、正直、その後に作られる、この類の作品というのはどこかしら似たり寄ったりなドキュメンタリードラマとして作られるのが一般的になっていたように思います。しかし、本作はその手のどれにも類することのないような、強烈な人が生き物として放つ異臭がスクリーンから伝わってくる作品になっています。表現が悪くて恐縮なのですが、僕は、小さい頃に見て、実家の近所に今もある養豚場の屠殺風景を思い出してしまいました。描かれるのは、淡々とした人の生物としての死が、至極生産的に行われている風景。ここに悲惨さや憂い、悲しさなどは一切同居しない。ただただ死というのが生み出されている現場の中で、ドラマは起こってくるのです。

物語は、そんな収容所の中で、黙々と生き残るためだけに生きている男サウルの下に起こっていきます。毎日と同じように、同胞を屠殺場に追いやり、生産される屍体を淡々と処理していく中に、彼が収容所に入る前に生き別れたままになっていた息子の屍体を見つけるのです。健康体であった息子の躰は、人体解剖のために医療室に運び込まれる。死の風景しかない毎日の中で、感情を押し殺したロボットになっていたサウルの心に宿ったのは、息子を自らの手で弔いたいという想い。人間的な情動に駆られ、冷静沈着であったサウルの行動は、医療室から息子を取り戻し、弔う手段を探しまわるという如何にも人間らしい行動へと移っていくのです。果たして、彼の想いは成功するのか、、、ここが映画の一番の見所になっています。

作品の背景は全然違いますが、僕は本作を見て、昔観た「地獄の黙示録」の強烈な生と死の狂乱状態と同じものを感じました。それは死の生産工場と化している収容所の異様さもそうだし、感情も何もなく、ユダヤ人たちをただただ抹殺していく生産工程もそう、その中で歯車となってロボット化しているゾンダーコマンドも異常だし、ドイツ兵たちはまるで工場の生産主任のようなホワイトカラーとして描かれるのも狂気に満ちています。しかし、そうした過剰なまでの異常な世界の中で、ただ人間らしく芯にあるのはサウルが感じた息子への愛情。正直、作品の中では息子かどうかも怪しい描かれ方をするのですが、異常な状況の中で、その想いだけがピュアな人らしい一筋の光として昇華されていくのです。スタンダードサイズで描かれる狭い映像空間も、サウルが周りの異常な状態からできるだけ目を背け、必死に下を向いて生きていたことを象徴しているし、周りの光景がすべて見えないことが余計にいろいろなことを想像してしまい、そこが本当に異常な地獄であったことを予見させるのです。これはすごく巧妙で、上手い作品づくりだと唸らされます。

決して、見て気持ちのよい作品ではないですし、観た後も気分は晴れることはない作品です。しかし、映画としてはここ数年は頭に残るような、強烈な異彩を放つ傑作だと思います。

次回レビュー予定は、「ヘイトフル・エイト」です。

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