『否定と肯定』:ホロコーストの史実を巡る法廷劇。法廷術を巧みに使うところは感心するが、法廷エンタテイメントとしてはあまり盛り上がらない。。

否定と肯定

「否定と肯定」を観ました。

評価:★☆

1994年、ユダヤ人女性の歴史学者リップシュタットは、ジョージア州アトランタにあるエモリー大学で講演を行っていた。彼女は講演の中で、イギリスの歴史家アーヴィングによる大量虐殺はなかったとする”ホロコースト否定論”の主張に看過できず、自著「ホロコーストの真実」の中で彼の主張を真っ向から否定する。その日、一方のアーヴィングがリップシュタットの講演に乗り込み、彼女を名誉毀損の罪でイギリスで訴えることを宣言する。アーヴィングから提訴された彼女は、訴えられた側に立証責任があるイギリスの法廷で、ホロコースト否定論を崩す必要があった。彼女のためにイギリス人による大弁護団が結成され、2000年1月、いよいよ注目の裁判が王立裁判所で始まるのだった。。ホロコーストを巡る実際の裁判に基づく法廷ドラマ。監督は、「ボディガード」のミック・ジャクソン。

「シンドラーのリスト」、「戦場のピアニスト」など数々のホロコーストを扱った作品はあり、その中でも戦争中ではなく、戦後にホロコーストも含めたユダヤ人迫害を問題視する精算的な作品(「顔のないヒトラーたち」等)もありますが、現代劇の中で歴史的な事実を湾曲したものとして争った史実をもとにする作品というのものなかなかありません。日本では進んだ学校しかありませんが、欧米の国々ではディベートの文化というが大事にされていて、それぞれの思想・心情は横においておいて、1つのテーマにおいて”賛成派”と”反対派”に分かれて議論する文化というのが古くからありますが、本作を観ていると、ホロコーストがあったかなかったかは別にして、そうしたディベート的な視座で過去の出来事や倫理観を戦わせることで、その物事の真実や真理に真っ当から対峙・検証を行うというのはいいことだと思います。日本も法治国家ではありますが、良くも悪くもグレーにしておくことがよいような風潮があり、そうすると結局真実や問題点がいつまでたっても見えてこないことが多々あると思います。それを正す意味でもスキルとして身につけるのは、必要なことだと感じました。

さて、映画に戻ると、本作はそうした否定論者を如何に突き崩していくかという法廷劇が中心にあります。こうしたお話は最初は敵側(この場合は否定論者)が優位に進めていたことが、最後の最後で主人公側が勝つということで一定のカタルシスがあるのですが、本作では主人公側には最初から法廷術に長ける大弁護団がいて、対する訴えていたほうがアーヴィングただ1人(もちろん証人等々はいますが)で、見た目から否定論者側の形勢が不利なんですよね。内容は触れないですが、だから盲点を突かれるとすごくあっさりと白旗を振ってしまう。もちろん、判決が出るまではどちらか分からないハラハラ感はあるものの、主人公側の論理展開が凄まじいので、最初からほぼ結果が見えているんですよね。これでは法廷エンタテイメントとしての迫力(まぁ、史実劇なのでそこが主軸ではないかもしれないですけど)に欠けてしまっているのです。

むしろ僕は観ていて、日本でも南京大虐殺やら、従軍慰安婦問題やら、未だに戦後に抱える闇の問題があるなーと思ってみていました。歴史的な事実や精査は無論しっかりやらないといけないですし、こういうキーワードが出てくるということは何もなかったということはないと思うので精算もきちんとしないといけないと感じるのですが、戦勝国の論理という問題は歴史のどの時点でも、どの国でも発生することだなと思ったりします。

次回レビュー予定は、「ユダヤ人を救った動物園」です。

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