『婚約者の友人』:亡き夫の墓の前に現れた謎の友人。人はいつも何かの幻にすがって生きて生きている。

婚約者の友人

「婚約者の友人」を観ました。

評価:★★★★

1919年、第一次世界大戦の爪痕に苦しむドイツ。アンナは婚約者のフランツをフランスとの戦いで亡くし、今は彼の両親と亡き彼の姿にすがるように悲しく生きてきた。毎日かかさぬ彼の墓前に向かう道すがら、謎めいた男がフランツの墓の前で悲しみにくれているのを目撃する。アドリアンと名乗るその男は、戦争が始まる前にパリでフランツと知り合い、友情を育んだという。フランツの両親とも交流した彼の言動は、亡きフランツをも思い起こさせ、アンナはこころ安らぐとともに、どこかアドリアンにも心惹かれていく自分がいた。ところが彼がフランスに戻る直前、彼は思わぬ告白をアンナにするのだった。。エルンスト・ルビッチ監督が1932年に「私の殺した男」として映画化したモーリス・ロスタンの戯曲を、「彼は秘密の女ともだち」のフランソワ・オゾン監督が大胆に翻案した作品。

「この世は夢の如く」と語ったのは、南北朝に政権が別れ、混迷を深める室町幕府を起こした足利尊氏と言われていますが、過去、オゾンの作品は、まさに本当に人の生きる世というものは儚いからこそ、人生というものは一種の幻影の中に生きるようなものということを体現しているような作品が多いように感じています。彼のフィルモグラフィで一番好きな「まぼろし」でも、愛すべき亡き夫の幻影の中で孤独に、そして真逆なまでに幸せにも生きる未亡人を描いたように、人にとっての本当の幸せとは、愛する人がいることでも、お金があることでも、豪勢な暮らしをしていることでもなく、愛してくれる人がいると思うことや、お金に余裕があるのと思うこと等々、その人にとって、幸せと思い込むことなのではないかと究極的には思うのです。だから、見かけはブスであっても、汚物を垂れ流していても、貧乏で食べるものさえも困窮してそうに見えても、それはあくまで他人から観ることであって、当事者にとっては構うことでは全然ない。一見は異様に見えるオゾン作品が、とことん優しく感じるのは、そうした人の本筋を見抜いた目線があるからだと思います。

本作も、原作がある脚色作品とはいえども、オゾンのリズムになっているのは、そうした幸せだと思い込む(もしくは思い込ませる)ことに、1人の青年フランツの死を巡って、誰も嘘はついていないということでしょう。アンナはアドリアンの本性を知って戸惑うものの、彼がフランツの墓の前まで来た事実や、両親に見せる思いの片鱗を信じたいと思っているし、アドリアンも自分がした行為に後ろめたさを感じたからこそ、蔑まされるのを覚悟でドイツまでやってくる。フランツの両親もアンナのついた嘘を、どこかのタイミングで見抜いたかもしれないけど、彼らや自分たち自身のために最後まで嘘を信じようとする。。誰も悪い人はいない中で、生きている側の人間として残酷なのは、時間は未来に向いて進んでしまうという現実。それぞれがフランツの死には向き合いながらも、結局そこは過去の一日点に過ぎず、それぞれが幸せになろうとする中で、過去に囚われる人にとって、未来に進む人が見せる現実は辛いものでしかないのです。

モノトーンからカラーまで、主人公のそれぞれの心情に合わせた作品の細かやさは、「まぼろし」や「8人の女たち」などの秀作を生み出した監督ならではのものを感じします。やや作風がクラシカルなものが続いているので、次は時代の最先端をいく現代劇を観たいなと一ファンとして思います。

次回レビュー予定は、「KUBO 二本の弦の秘密」です。

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