『サバイバルファミリー』:電気がなくなるっていう設定が、科学的にも、社会的にも少し描写が非現実的。。だけど、大事なところもしっかり描いている。

サバイバルファミリー

「サバイバルファミリー」を観ました。

評価:★★☆

鈴木一家の父親は会社の仕事に追われるだけで家庭には無関心、長男は無口でヘッドホンから流れる音楽に夢中、長女はスマートフォンを手放せず、母親は家族一緒だがバラバラになっている家族に半ば呆れた毎日だった。しかし、そんなある日突如、この世から電気が全てなくなり、電気で動くものすべてが止まったため、都市機能どころか生活全般が麻痺状態に陥った。最初は動揺のみで、すぐに回復するだろうとたかを括っていた鈴木一家だが、世間に混乱が広がる中、ようやく東京脱出を図り、生き残りをかけ奮闘し始めるのだが。。すべての電気が止まった危機的状況を活写する、「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督による異色ドラマ。

「ウォーターボーイズ」や「スウィング・ガールズ」など、普通の生活にありながらも、どこか異色な世界で生きる人たちをコミカルに描いてきた矢口監督。そんな彼の新作が、どこにでもいそうなコミュニケーション不良の一家が、電気が全くない異色な世界にいきなり放り込むという、今までのスタイルとは真逆な作品でのコミカル活劇をもってきました。アイディアは新鮮だし、いつもの矢口監督らしいコミカルなキャラクター像というのも発揮されているのですが、世の中の全てが仰天な世界に放り込まれるという設定に難があるように思えてならない作品でした。。個人的には、電気が全くないという設定(電線から流れてくる電気だけではなく、人力の発電機も、乾電池のような蓄電器も全く作用しない)というのが、どうもしっくりこなかった。中学理科くらいで習うように、電気は電磁力の組み合わせで発生する。映画の中の設定では、地球の磁場の異変ということになっていますが、スマフォのような弱電力系はともかくも、乾電池まで影響する磁場変動なら大気の乱れが発生し、生命維持も困難になってくるのではないか、、と思うのです。まぇ、フィクションなので、そういうことは目をつぶると仮定しても、電気という現代人にとっては主要なエネルギー源がなくなったことによる終末感というのがもう少し出たほうがいいのではないでしょうか。。ゾンビ映画やエイリアン侵略ものではないので、、というのは分からんでもないですが、題名にもなっている”サバイバル感”の切迫感というのは希薄なようにも感じるのです。

とはいえ、じゃあ矢口監督のこの挑戦が失敗だったかというと、そうとも思えません。特に、この20年位を見ても、世の中の技術に対する依存度というか、当たり前感は着実に増えているのです。20年前にはインターネットには誰にも危険なり、懐疑的なものをもっていたのに、今じゃ行政の申し込みですら、インターネット受付が基本線みたくなっているし、SNSの深化によって、コミュニケーションの密度は一掃濃い、メンドくさいものになっています(笑)。でも、そんな当たり前を基準に世の中は動いていき、その流れに誰もが必死でしがみつこうとする。それは技術そのものだけでなく、技術の上に形成される人間関係も同じなのです。ところが電気がなくなるということで、そうした現代のつながりのベースが外れてしまったことで、信頼していたつながりさえももろくも崩れることを巧みに描き出す。そこで残るのは、生身の醜い人間の姿なのです。そんな姿でも愛し、笑え、愛しく思ってしまうのが、家族というもの。逆に、ここまでしないと真の家族のつながりが見えてこないことこそ、この映画が投げかける問題の根本なのかもしれません。

次回レビュー予定は、「王様のためのホログラム」です。

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