『永い言い訳』:人の現実と虚構を行来する生き方を素直に描く、西川監督の総決算作品!

永い言い訳

「永い言い訳」を観ました。

評価:★★★★★

“津村啓”というペンネームでテレビのバラエティなどでも活躍する人気小説家の衣笠幸夫。ある日、いつものような日常を過ごしている最中、妻がバス事故で突然他界してしまう。妻が亡くなったはずなのに、悲しみを表せない幸夫。そんな中、同じ事故の犠牲者となった妻の親友の夫と2人の遺児たちと交流を深める幸夫は、亡き妻とも再び向き合い始めてゆく。「夢売るふたり」の西川美和が直木賞候補となった自らの書き下ろし小説を映画化した作品。

西川監督の作品は長編デビュー作となる「蛇イチゴ」から、コンスタントにスクリーンで拝見させていただいている監督さんですが、本作で監督自身が追求されてきた形というのが1つの集大成になったのではないかなと感じる作品となっていました。僕の勝手な解釈で申し訳ないのですが、西川監督というのは、現実と虚構の間を行来することで、人が生きる実感というものを再定義するような作品が多いように感じます。「蛇イチゴ」では家族全員が持っている秘密(虚構)が、ある出来事をキッカケに噴出していく様を、「ゆれる」では隠し事から始まった関係が、吊橋の上の事件で噴出する様を、「ディア・ドクター」では偽物である医者が遭遇した事柄で、真の人との触れ合いを感じる様を、「夢売るふたり」では幸せであったはずの夫婦が、ある事故をキッカケに虚構で暮らしていく様を、、、それぞれの作品で、まさに現実と虚構の狭間で生きる人のリアルな姿を描いていました。

省みて、僕たちの生きる日常でも、しょっちゅう生きている現実と虚構を行来していることがよくあると思います。生きているというのは現実じゃないか、、という人もいるかもしれないですが、自分という人間に降ってくるすべての情報に対して、私たちはリアルに反応しているわけではないのです。痛みがあれば、それは見ないようにしたり、痛みがあることを忘れようとしたり、薬などいろんな手段で押さえ込もうとしたりする。そうして、虚構の世界に足を踏み入れることで、自分という人間を守り、毎日の苦しみから逃れていく。これは決して悪いことではなく、心を持った人間だからこその防御反応なのです。でも、虚構の世界に生きていると、リアルな生きている感覚というものが少しずつ失われていく。だからこそ、時と場合によって、心を開放することで感動したり、逆に傷ついたりして生きていくことの感覚を取り戻していく。面倒臭いですが、そういう営みを繰り返しながら、人は生きていくのです。

なので、西川監督の作品を見ていると、いろんな物語のフィルターを通して、生きるという素晴らしい感覚も、嫌な感覚も同時に想起させられるのです。本作の場合でいうと、主人公・幸夫が感じる無機質な毎日の感覚が、妻の事故死をキッカケに遭遇した出会いの中で、少しずつ生きているという感覚をリアルに取り戻していく。最初はすごくノッペリとした傲慢男でしかなかった幸夫。でも、2人の子どもたちの交流を通して、忘れていた生きるという感覚が蘇ってくるのです。でも、これは妻が死ぬ前の自分は、生きているという感覚が希薄だったという裏返しとなっている。これは考えてみれば酷いお話なのです。テレビにも出る人気小説家で、見る限りはお金にも何不自由がない。子どももいないので、日常を迷惑なことは何もない。そんな彼が、逆に迷惑を被ることによって、妻の死を感じていく。こうした人間の酷いとも思える感覚を、そのままストレートに描くことの力強さに、観ているこちらは圧倒されるのです。

よく笑い、よく怒り、よく泣く、、そもそも人間自身は生物の中では弱い生き物で、感情という面倒臭く、そして素晴らしいものを持っている。カッコいいとか、カッコ悪いかとか、人間らしいとかも関係なく、ストレートに感情に素直に生きれる人生が、実はすごく健全な人生なのではないか。。本作を観ていて、そんなことをふと考えてしまいました。

次回レビュー予定は、「スター・トレック BEYOND」です。

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