『千と千尋の神隠し』:この映画の素晴らしさを書き始めると止まらない。改めて観ても三度泣いた!

千と千尋の神隠し

「千と千尋の神隠し」を観ました。

評価:★★★★★

10歳の少女・千尋は、仲良しだったクラスメイトと離れ、遠くの街に引っ越してきた。ほんの少しの寂しさと、どことなく何事もやる気が起きない毎日の中、引っ越しの道筋で、千尋は両親と一緒に不思議な町へと迷いこんでしまう。何となく嫌な予感がし、早く立ち去りたい千尋の思いと裏腹に、町の不思議な空気に毒された両親は豚に姿を変えられてしまう。その不思議な町は、神々が病気と傷を癒す為の温泉町だったのだ。町の掟を破り豚にされた両親と別れ、謎の美少年・ハクの手引きの下、湯婆婆という強欲な魔女が経営する湯屋で、千という名前で働くことになる。人生経験豊かなボイラー焚きの釜爺や先輩のリンに励まされながら、逆境の中、働き始める千尋は様々な経験を通じて、新たな自分を見つけていくのだが。。監督は「もののけ姫」の宮崎駿で、自身による原作を宮崎監督自らが脚色した作品となっています。

ご存知、宮﨑駿の2001年の傑作アニメ映画。なぜ、今回この作品の感想文を書くかというと、2016年9月に公開される久方ぶりのジブリ作品(といっても、海外スタジオとの共同製作ですが)、「レッドタートル ある島の物語」の公開に先んじて行われた、過去のジブリ作品の中から選ばれた1作品が劇場公開されるというイベントに行ってきたからです。ジブリ総選挙と称された、このイベントで公開されることが決まったのが本作。僕は、「風の谷のナウシカ」かなと思いましたが、好きな作品が再び劇場公開されると知り、チケット争奪戦を何とかくぐり抜け、スクリーンで再び見ることができました。そして、改めてジブリの、そして、宮﨑駿という人の凄さを感じることができたのです。

テレビのロードショーや、DVD等々でも何回も観たことがある作品でもありますが、僕はジブリ作品ほど(というか宮崎監督作ほどというほうが適切かもしれませんが)、テレビではなく、是非スクリーンで観て欲しいと思うのです。細田監督や、新海監督など新進気鋭の人が出てきて、レベルが高くなっているアニメ映画の分野ですが、ジブリ作品ほど、スクリーンの奥行きを感じる作品はないのです。小学校の頃に観た「となりのトトロ」の、あのトトロが住む不思議な神社の森の奥深さ、ネコバスでの疾走感はもとい、「もののけ姫」のタタラバや壮大な戦いの場面など、2次元であるべきスクリーンの奥が延々と”向こう側”の世界まで広がっている感が出てくる。この不思議は何度見た作品でも、そして本作でも感じることなのです。

そして、本作の一番の特徴は、そうしたスクリーンの”向こう側”が、八百万の神たちが集まる不思議な町、黄泉の世界のような異様な世界観と見事にオーバラップしていくのです。だから、異世界感がドンと観客に迫ってきて、観ている側は千尋と同じ目線で、不思議な町・世界との付き合い方に慣れていかないといけない。実は、こうした人の人知を超えた存在との付き合い方を知っていくというのは、縄文の時代から日本人が様々な自然の、時には人間の、未知なる力というものに畏敬の念を感じ、そこに神や仏の存在を感じてきたことに通じていくんですよね。未知なるものをそうした神や仏に置き換えることによって、対話可能な存在にし、それを愛することで私たち自身や周りを取り囲む世界というものを愛してきたのです。そうした日本人の精神性というものを宮崎監督は「もののけ姫」でダイナミックに描いたのですが、更に分かりやすい形に翻訳したのが、本作だと僕は感じるのです。

僕は、この映画で三度泣けるところがあるのですが、そのうちの1つが、序盤に両親が豚に変えられ、逃げ惑う千尋が、ハクによって導かれ、落ち着いたところで白米のおにぎりを食べながら泣くところなんですよね。小さい頃に何度も手術をして、その度に、手術後、すっからかんの胃に最初に食べ物が入る瞬間の感動、、私事で申し訳ないのですが、いつもその瞬間を思い出すんですよね。本作には、この他にも、こうしたシンプルな人の五感を刺激するシーンがいくつもある。そうした人の生身の生きているという感覚の刺激が、物語の感情の波とうまくシンクロしてくるのです。私たちの普段の生活の中でも、いろんな感情と向き合うことがあると思いますが、そのときに何かした感覚と結びつくと、不思議と何とも言えない感動に結びついたりする。そうした生きることの神秘性を素直に書き下してしまうあたりが、宮崎監督の素晴らしいところなのです。

次回レビュー予定は、「にがくてあまい」です。

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