『アバウト・レイ 16歳の決断』:女性の身体に生まれながらも男性として生きることを決断した青年と家族の物語。映画のテーマであるLGBTや多様性のことについて、深く考えさせられる秀作!

アバウト・レイ 16歳の決断

「アバウト・レイ 16歳の決断」を観ました。

評価:★★★★☆

女性の身体に生まれながらも男性としての性意識がある16歳のレイは、心身ともに男の子として生きることを決断する。母親マギーは医師が差し出すホルモン治療など見慣れない資料に呆然とし、動揺を隠せない。一方、レズビアンであることをすでにカミングアウトし、最愛のパートナーとの暮らしを謳歌している祖母のドリーは、レイの新しい人生への一歩を密かに応援していた。レイは髪を短く切り、トレーニングをして、本来の姿を手に入れようと努力する。そんなレイの成長を見つめていたマギーは意を決し、治療の同意書のサインをもらうため、別れた夫クレイグに久しぶりに会いに行く。しかし、困惑する元夫は賛成してくれない。見かねたレイは、マギーに黙って父を訪ねていくと、そこでまさかの家族の秘密を知るのだが。。監督は、「チューブ・テイルズ/ローズバッド」のゲイビー・デラル。

いわゆるLGBT問題を取り扱った映画ですが、今の時制を鋭くつくような問題をいろいろ含んだ作品だと感じました。LGBT作品というと、「ミルク」や一昨年前に観た「ハンズ・オブ・ラブ」に描かれているように、社会の中でどう”社会人”として生きていく権利を掴んでいくかというテーマを追求していく作品が多かったのですが、もうハリウッドでは同性間の恋愛というのは当たり前として、同性間でも普通の恋愛映画の枠組で描いてくる作品が今年以降からは公開されてくるようになります。(例えがどうかという感じですが、)ビジネスに例えれば、成長曲線の立ち上がり(導入期)はとっくに過ぎて、成長期に入ろうとしてきている。日本でもBLなど長く文化として同性愛が描かれる場面はありましたが、バライティーなどのオネエ描写だけではなく、映画やドラマで普通にゲイカップルをテーマとして登場させるような作品も増えてきています。

こうした文化から変革をし、同性愛でも当たり前という枠組みを取っ払う傾向は賛成なのですが、一方でこうした社会の変化に対し、社会の基盤を支える倫理の部分が大きく立ち遅れているように思えてなりません。よくLGBTのそれぞれの頭文字が何を示していているかというのを問いに出されたりもしますが、これが案外難しいのです。自分の身体的性を自認しながら同性に性指向がある人たち(LやG)、同性異性の線引きがない指向がある人々(B)、そもそも身体的な性に否定的な認識を持つ人たち(T)と様々な人がいるのです。同性愛という言葉も、もしかしたらLGBT側から見ると違和感しかない言葉なのかもしれません。本作でも、レズの祖母ドリーですら、トランスジェンダーであるレイの(身体的)性を変える行動に違和感を呈する場面があるなど、一言に同性愛の問題だと片付けられないところがあったりするのです。昨今、”多様性”という言葉だけ先行しつつありますが、もし同性の友人や同僚に告白されたら、どうすればいいのか? この答え(Yesでも、Noでも)とその後の関係も含め、多くの人が答えに窮することでしょう。これはマジョリティ側の問題にとどまらず、マイノリティ(LGBT側)の問題でもあるのです。

最近、中学高校での保健体育などの課目で、いわゆる性教育時間が大幅に削減されるというニュースを聞きました。僕が中学生のときに、性教育に関する重要性が叫ばれ、保健や家庭科などで(保育も含め)教授時間が大幅に増えた年代だけに、このニュースは残念でなりません。同性異性、年齢、人種に関わらず、人を好きになるという恋愛感情は(めんどくさいですが笑)、とても素晴らしいものだと僕は思います。ただ、人は様々なところで集団として社会生活を営むために、単純に各個の好きという感情だけを満足させることは悲しいながらできないものなのです。しかし、そこで縁がなくとも、互いが円満に生活していけるような意識は持っていなくてはいけない。その大前提になるのが教育であり、知識であると思うのです。本作で、レイの決断に対し、母親や祖母、そして別れた夫など、それぞれが悩んだように、個人の中でも葛藤が必要なことでしょう。でも、諦めずに対話をし続けることで、ようやく”多様性を認めること”が実現できる社会が来ると思うのです。

次回レビュー予定は、「今夜、ロマンス劇場で」です。

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